何となくヒットしたような感のあるミニオンズのスタッフが制作した「グリンチ」のレビューです。
基本的な設定はひとりぼっちのひねくれ者グリンチとフー村の住民たちが繰り広げるハートフルクリスマスムービーになりまして映画にでる特徴あるマシーンがひとつの見どころ。
全体的な流れはクリスマスを中心に描かれているもののフー村における社会のあり方や科学技術等の細かい部分をすっ飛ばしているだけにおとぎ話なアニメ映画といった感想になります。
映画グリンチ
基本的にはひねくれグリンチの気持ちを描いた物語、そのひねくれ加減がクリスマスにMAXとなってクリスマスにサンタに変装してプレゼントを盗んでみんなをイヤな気持ちにしてやるぜ!ってなあらすじです。
ひねくれグリンチの物語
家族も友だちもいないグリンチはいつも一人ぼっち。
ずっと寂しい毎日を過ごしていた。
だから、オトナになって….ひねくれ者になってしまった!
そんなグリンチが一番嫌いなのは、
村中が幸せな気分に包まれるクリスマス。
みんなの笑顔が我慢できないグリンチはとんでもない作戦を思いつく
「サンタクロースに変装して村中からプレゼントを盗んでやる!」
その頃、フー村に住む少女シンディー・ルーはある”願い”を叶えてもらうための秘密の計画を立てていた。
そしてクリスマスイヴ、シンディはサンタの恰好をしたグリンチと出合う…
公式サイトにグリンチのあらすじが書かれているのだけれど、これはあらすじというよりもストーリーそのもの。
物語の結末を書いていないだけで殆ど全部書いちゃってる…!といったグリンチ鑑賞後の人からすればある意味インパクトのあるあらすじになります。
それでもグリンチのストーリーを箇条書きにするとこんな流れ
- 淋しい男?(人間かしゃべる動物か不明)が洞窟で暮らしている
- 直ぐ近くの街(フー村)は悪人が存在しないような街、微妙な科学技術がある
- グリンチはフー村に関わりたくないけど食量を切らしてしまったので仕方なくフー村に買い出しにいく
- クリスマスムードのフー村の雰囲気がムカつくグリンチは些細な嫌がらせをしつつ買い物を済ませて帰る
- フー村の少女シンディーがお母さん(シングルマザーっぽい)が大変だからサンタに直接話してお母さんを楽にするようお願いしようと計画を練る(企てる)
- フー村に大きすぎるクリスマスツリーが空輸されるシーンを目撃したグリンチはひねくれモードマックス、クリスマスプレゼントを全部盗む計画を立てる
- グリンチのひねくれた計画にトナカイやソリが必要なので軽い冒険をしながらグリンチは調達、準備を整える。
- フー村の少女シンディーはサンタにお願いというよりもサンタを罠にかけて捕獲、そして直談判する企ての準備をして寝る。
- クリスマスイブの夜にグリンチがフー村に突撃、全ての家のプレゼントを盗んだりクリスマスの飾りつけも取っ払う(微妙な力学で動く様々な自作機械をつかって)
- 最後の家、シンディーの家でサンタ捕獲の罠にグリンチがハマってシンディーにお願いをされる、そこでグリンチは自分がいけない事をしているような感じになりつつも結局全部盗んで持ち帰る。
- 朝になったフー村で村人が慌てるも広場でクリスマス的な歌を歌って幸せな気持ちになってる姿を目撃したグリンチの心が動かされる。
- 改心したグリンチは盗んたプレゼントをフー村に返しにいき、広場で村人全員に謝罪する。
- 洞窟に戻ったグリンチの家に少女シンディーが訪れてクリスマスパーティーに誘われる。
ほとんどがグリンチの気持ちを描いた内容なので少々ダルイ映画ってのが私の正直な感想です。面白いか?面白くないか?と聞かれれば「あまり面白くなかった…」と答えます。
フー村が異常
映画グリンチを見た人は同じように感じるかもしれませんね、フー村が異常なのです。
およそ外界とは遮断されたような山奥にあるフー村は雪深い村、明らかに豪雪地帯。
しかし交通の便は発達しているような感じでフー村から外へ仕事にいったり学校に行ったりしているような雰囲気があるのです。
それを可能とするのは何とも言い難いアナログが進んだような科学力がある社会、しかしデジタルな要素も含んだ社会…はっきりいってフー村の社会構造や科学力や世界設定が少々異常。
その異常なフー村の設定には一切触れる事なく最後まで話が進むところが雑な物語となっているように感じました。
またフー村には悪人が存在しないような雰囲気、それにより離れた洞窟に住むグリンチがひねくれている悪いヤツに見えるようにした演出感があるにせよフー村には純粋な善人な住民しか描かれていないのです。
グリンチは孤児院育ちで愛を知らない50代
幸せで社会問題など一切存在しないようなフー村、しかしグリンチはフー村に出身であるような雰囲気でしかも孤児院でひとりぼっちの少年時代を過ごしていた描写があります。
そんな孤児院の少年時代に幸せそうなクリスマス家族を見てひねくれてしまったグリンチ…といったひねくれ物誕生秘話を描くシーンも一応は用意されてはいるのです。
しかし現フー村は前述の通り社会問題など存在しないような村
とてもじゃないけど孤児院が存在する雰囲気は一切ありません。
という事はグリンチが最後の孤児院出身または別の村出身、しかも50代ってんだからフー村の設定が強引すぎるほどアヤフヤなものになってしまうのです。
フー村において、グリンチだけが孤独な存在とする雑な設定は映画鑑賞者に「ん?」と感じさせてしまう部分が多々あるはずです。
科学技術の土台が不明すぎる
クリスマス映画でアニメで人間か動物か不明な生物グリンチがいるのだからファンタジー要素が強く、なんなら魔法でもよかったと思う部分があるのに映画グリンチにおいては微妙な力学で動く科学力があります。
自動車やキャタピラ車はエンジンか電動なのでしょうかね、何となくオール電力なのだと思う。
しかし電力にしたって「そんなに細い部品で油圧式でもないのに重量のある物を持ちあげられるわけがない」といった素朴な疑問がありまくり。
映画グリンチの世界における金属とはあり得ない強度のプラスチックのような軽い素材、それは2018年のリアルな社会において不可能な物質になるのです。
「まあまあ、映画だからwww」
で終われる部分もある….では済まない。
なぜならヘリコプターを画面でモニター越しに遠隔操作とかしちゃってるのですよ、それってデジタルじゃん!
映画グリンチは科学技術の土台描写を雑に描きすぎている部分が多いにあるのです。
サンタクロースが存在している世界なのか、していない世界なのか?
クリスマスをテーマにした映画において重要な設定はサンタクロースがどのような存在であるか?は外せないポイントになります。
- サンタは心の中に存在する(サンタ不在)
- サンタは魔法使いや妖精的存在(サンタ存在)
クリスマス映画は大きく分けてこの二つが物語の鍵を握るといっても過言ではなく、サンタ不在映画の場合は登場人物の誰かがサンタ的な存在になるパターン、または奇跡か偶然をサンタの仕業として描くパターンが王道でしょう。
サンタ存在映画の場合はわりとなんでもアリ。
私がサンタ存在パターンで優秀だな…と高く評価する映画は「アーサー・クリスマスの大冒険」
サンタクロース存在パターン映画の中では吹っ切れている映画、子供から大人まで見ても大丈夫でサンタの正体を丸出しにしつつも最後はサンタを信じるといった「信仰心」で上手くまとめられています。
では映画クリンチでサンタは存在しているのか?
になるのですが私の見立てでは多分サンタは不在。
グリンチのような人間とも動物とも分からない生物が主人公のクリスマス映画で考えるならばサンタ存在が良いと思うけど中途半端に進んだヘンテコな科学技術がサンタの存在を許さないような雰囲気があるのです。
しかしフー村の純粋な村人たちはサンタの存在を信じ切っているような状態、ではフー村の住民が信じるサンタとは?といった核心に迫る部分の描写がストーリーで必要になるはずなのにも関わらずそこを無視して物語は最後まで突き進んでしまうのです。
私の考えではフー村の住民が信じるサンタとは心の中のサンタであって奇跡パターンではないかと考えている、勿論子供たちは奇跡パターンのサンタではなくリアルサンタの存在を信じている。
そして映画グリンチをつまらない映画と評価してしまう最大の理由、それが
「フー村のクリスマスプレゼントは住民が用意したものだと思う」
どうしてもここに行きついてしまうのです、つまりサンタ不在。
しかしプレゼントの量や装飾や雰囲気的には存在するサンタが用意したプレゼントのような雰囲気になっているといった違和感。
では何故サンタをそのような微妙な存在にしなければならないのか?の理由が至って単純。
- ひねくれ者のグリンチがサンタに変装してクリスマスプレゼントを盗むといった物語の根幹
- 少女シンディールーの罠にグリンチが引っかかって捕まり、グリンチを本当のサンタだと思わなければならない
- グリンチが純粋な少女の気持ちに触れてひねくれ心が揺れ動く必要性
映画グリンチの結末はひねくれ者でも改心して謝罪すればいい事あるかもよ?の部分でサンタの奇跡的な部分を表現しかたったのでしょう。
しかし映画視聴者としては最後の方までサンタ不在・存在が見えないor確定しないのでイライラさせる部分があるはずです。
フー村は無法地帯
映画グリンチはフー村の異常とも思える社会構造が物語の最後で怒涛のように襲いかかってきます。
つまりフー村全部のクリスマスプレゼントを盗んだグリンチはかなりの犯罪者であってひねくれ者では済まされない行為を行いました。
しかし村人全員の前で謝罪を行い、クリスマスプレゼントを返した後はトボトボと自宅に歩いて帰ってしまうのです。
その犯罪者たるグリンチをフー村の住民は誰も止めない、ポカ~んとした表情で見つめるだけ… 謝ったから無罪的な状態になるのです。
つまりフー村は無法地帯。
世の中には謝ってすむ話とそうでない話があることは常識、そしてグリンチが行った犯罪は謝ってすむレベルの行為ではありません。
映画グリンチが伝えたかったこと
グリンチはひねくれ者、そのひねくれた性格は孤児院出身だから仕方が無い、犯罪を行っても仕方が無い…. といった考え方がひとつ、
大きな犯罪を行っても謝罪すれば許してもらえる、シンディー・ルーのような少女もいるといった考え方がひとつ….
うがった見方ですが現実的に考えるとこうなってしまうのです。
そうならない為にはサンタ存在方式が望ましいとは思うのだけれど映画グリンチはフー村の住民が一致団結の純粋無垢な超イイ人集団に仕上げてしまったところがダルい映画になってしまった…私はこのように考えております。
映画グリンチはクリスマス映画でファンタジー的なアニメだからそこまで言うことないしゃん!ってな意見もあるでしょう、それはその通り。
しかしですね、例えば映画グリンチを子供と見た親が子供にグリンチが行った行為をきちんと説明出来るのでしょうか?
心を開いて謝罪することが大切な場合もあるでしょう、ただそれを伝えるための物語ならばあそこまでグリンチに大きな悪さを行わせる必要はないはずです。
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